五・一五事件が起きた1932年(昭和7年)5月15日は、日本の政党政治の終焉をもたらした重要な出来事でした。当時の首相・犬養毅が暗殺されるなど、政治、軍部、社会に大きな影響を与えた五・一五事件について、この記事ではクイズ形式で10問ご紹介します。事件の年月日、関係者、目的、影響など、近代日本史の転換点となった五・一五事件の理解を深めていただけると思います。奮って挑戦してみてください。
Q1 : 五・一五事件の後、次の大きな軍事クーデター未遂事件は何ですか?
五・一五事件の4年後、1936年には軍部(主に陸軍)の青年将校が中心となった大規模なクーデター未遂事件「二・二六事件」が起きました。五・一五事件同様、時の政府要人が襲撃され、政界・軍部への大きな影響を与えました。この事件は日本の軍国主義化をさらに進める契機となりました。
Q2 : 五・一五事件が政党政治に及ぼした影響は?
五・一五事件は「政党内閣の終焉」と呼ばれるきっかけとなり、政党政治は一時的に終息します。政党出身者が首相に就くことはなくなり、軍部や官僚が主導する内閣が続き、日本の政治体制が大きく変化していきました。
Q3 : 五・一五事件の被告人たちにたいする世論の反応は?
五・一五事件の犯人たちに対しては、国民の間に同情や温情を求める声が多く、結果的に比較的軽い刑で済みました。「昭和維新」の志士として持ち上げる世論もありました。これがのちの二・二六事件や軍部の台頭の背景となります。
Q4 : 五・一五事件発生当日、首相官邸以外で被害が大きかったのは?
五・一五事件では警視庁も襲撃され大きな被害を受けました。首相官邸襲撃が最も知られていますが、治安の要である警視庁も標的となっています。その他、日本銀行や民間人宅への攻撃もありましたが、警視庁への攻撃は当時大きな話題となりました。
Q5 : 五・一五事件後、時の政府はどのような形になりましたか?
五・一五事件後、第一次齋藤実内閣が成立します。形式的には政党内閣が継続されませんでした。齋藤は官僚出身であり、以降の内閣も官僚や軍人が主導する傾向が強まります。これは昭和初期の政治体制変革の重要な転換点です。
Q6 : 五・一五事件で襲撃された施設に該当しないものはどれ?
五・一五事件で襲撃された主な施設は首相官邸、日本銀行、警視庁などですが、政党本部である立憲政友会本部は襲撃されていません。標的としたのは国の中枢的な場所や経済に関わる場所でした。
Q7 : 五・一五事件の目的のひとつは何でしたか?
五・一五事件の首謀者たちが掲げた目標の一つは、既成の政党政治を打倒し、軍部主導の新体制を目指すことでした。天皇制は維持・尊重する立場でしたが、腐敗した政党政治や資本家支配を否定し、国家改造を志向していました。
Q8 : 五・一五事件に直接関与した主な集団はどれですか?
五・一五事件は主に海軍青年将校が中心となって引き起こされました。陸軍将校の関与もありましたが、実行部隊としては海軍関係者の存在が大きく、これが二・二六事件(陸軍中心)との違いです。こうした軍内部の若手の過激化が当時の社会背景として存在しました。
Q9 : 五・一五事件で暗殺された当時の首相は誰ですか?
五・一五事件の主な犠牲者であり暗殺されたのは、当時の内閣総理大臣・犬養毅です。犬養は事件当日に自宅で襲撃され亡くなりました。これにより政党内閣の終焉となり、その後は軍部や官僚が主導する政治体制へ急速に移行していきました。
Q10 : 五・一五事件が起きた年はいつですか?
五・一五事件は1932年(昭和7年)5月15日に発生しました。海軍青年将校らが中心となって首相官邸などを襲撃したクーデター未遂事件で、日本の政党政治の終焉をもたらした事件です。日付や年を混同しやすい事件が近代日本史には複数ありますが、五・一五事件に関して正確な年を覚えておきましょう。
まとめ
いかがでしたか? 今回は五・一五事件クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は五・一五事件クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。