1854年、日本はアメリカとの間で初めての近代的な国際条約である日米和親条約を締結しました。この条約は、日本が鎖国政策を事実上終わらせ、外国との本格的な交流を始める転換点となりました。本記事では、この歴史的な条約締結について、年代、締結場所、主要人物、条項など、10の重要ポイントを解説するクイズを紹介します。日米関係の基礎を築いた日米和親条約の知識を深めていきましょう。
Q1 : この日米和親条約の正式な英語名はどれですか?
日米和親条約の正式な英語名は『Treaty of Kanagawa』です。ポーツマス条約は日露戦争後の条約、ハリス条約はその後の通商条約、エド条約は実在しません。神奈川条約という名で知られています。
Q2 : 日米和親条約の条文で正しいものはどれ?
日米和親条約(神奈川条約)ではアメリカ船への薪水や食料の供給が認められました。自由居住や迅速な通商条約締結、布教許可は含まれていません。通商や大きな権利は後の条約で定められることになります。
Q3 : ペリー提督が来航したとき日本政府が最初に取った対応は?
ペリー来航に対し、日本政府(幕府)は即座に開港せず、アメリカへの返答を翌年に延期しました。この間に国内の意見調整などを行い、翌年に再来したペリーと条約を締結しました。
Q4 : 日米和親条約が日本に及ぼした影響として正しいものはどれですか?
日米和親条約によって日本の開国が進みました。それまでの約200年間の鎖国政策が事実上終わりを迎え、他国(イギリスやロシアなど)との条約締結も相次ぐ結果となりました。移民の流入や完全独立の保障が与えられたわけではありません。
Q5 : 日米和親条約が締結された場所はどこですか?
条約は「神奈川」、現在の横浜市付近で締結されました。交渉の場として神奈川宿の応接所が指定され、艦隊が停泊していた浦賀付近から移動して調印されました。下田は開港された港であり、調印の場所にはなりませんでした。
Q6 : 日米和親条約でアメリカに認められたことの一つは?
日米和親条約でアメリカに認められたのは「領事を置く権利」です。貿易の自由や布教活動、通貨の鋳造権などは認められていませんでした。領事は下田・函館のいずれかに置くことができ、日本との交流の窓口となりました。
Q7 : 日米和親条約によって開港された二つの港はどこですか?
日米和親条約で開港されたのは下田と函館です。下田(伊豆半島)と函館(北海道)はアメリカ船への物資補給地および寄港地として指定されました。横浜や神戸、長崎などは後の条約や時代に開港された港です。
Q8 : ペリー提督が浦賀に来航した際、開港を求めたアメリカの目的のひとつは何でしたか?
アメリカの主な目的の一つは、太平洋を往航する捕鯨船への物資補給でした。当時、アメリカの捕鯨業は盛んであり、長い航海のために燃料・水・食料の補給港が必要でした。他の選択肢は当時の直接的な目的ではありません。
Q9 : 日米和親条約を締結した日本側の最高責任者は誰だったでしょうか?
日米和親条約締結当時の日本側の最高責任者は阿部正弘です。彼は老中(現代でいう内閣の最高責任者)であり、条約締結の中心的役割を果たしました。徳川慶喜は後の将軍、勝海舟は幕末の外交官、井伊直弼は安政の大獄で有名で時期が異なります。
Q10 : 日米和親条約が締結された年はどれですか?
日米和親条約は1854年に締結されました。1853年はペリー提督が浦賀に来航した年であり、1868年は明治維新が始まった年、1871年は廃藩置県が行われた年です。そのため、条約締結の正しい年は1854年となります。この条約は、日本がアメリカに港を開放した最初の近代的な国際条約のひとつです。
まとめ
いかがでしたか? 今回は日米和親条約の締結クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は日米和親条約の締結クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。