新選組に関する歴史好きなら見逃せない10の問題!
新選組は幕末の動乱期に活躍した剣客集団として有名ですが、その実像は意外と知られていないのが現状です。今回のクイズでは、新選組の初代局長から隊旗の制作者、隊士の活躍まで、さまざまな角度から当時の姿を掘り下げていきます。新選組ファンはもちろん、幕末史に興味がある方も必見の内容となっています。果たしてあなたは全問正解できるでしょうか?新選組の真髄に迫る10問、ぜひお楽しみください。
Q1 : 新選組が京都で活動を始める前、江戸で結成された際に名乗っていたグループ名は何か。
文久3年2月、江戸幕府は将軍徳川家茂の上洛に際して護衛役となる浪士を募集した。その集団が「浪士組」で、主導したのは清河八郎であった。近藤勇や芹沢鴨らもこれに応募して上洛したが、清河が尊皇攘夷へ方針転換したため、京都残留を希望した一部が後に新選組となる。御陵衛士は伊東甲子太郎離脱後の組織、京都見廻組は幕府直轄の別組織、彰義隊は上野戦争で知られる別グループである。よって初期の名称は浪士組である。
Q2 : 新選組内部で定められ、隊士が脱隊や私闘を行った場合には切腹などの厳罰が科せられた規則は何と呼ばれるか。
新選組は隊士が急増したため組織の統制を図る目的で独自の規則を設けた。それが隊長格の近藤・土方らが起草したとされる「局中法度」である。内容は「士道に背くまじき事」「勝手に金策致すまじき事」など五箇条からなり、違反者には切腹を命じるなど極めて厳格だった。実際に山南敬助が脱走を疑われ切腹、谷三十郎が私的報復で切腹といった例がある。五箇条は条数、武家諸法度は幕府の法令、新戒律は架空であり、正解は局中法度である。
Q3 : 新選組を離脱して御陵衛士に参加し、1867年の油小路事件で近藤らに討たれた若手隊士は誰か。
藤堂平助は伊勢出身で剣は北辰一刀流を学び、天然理心流の門人でもあった。若くして新選組結成に加わり八番隊組長を務めたが、思想的には尊皇寄りで伊東甲子太郎に共鳴し、慶応3年に御陵衛士へ移籍した。しかし裏切りを危惧した土方歳三らは同年12月、京都油小路で伊東を暗殺し、その帰路にいた藤堂にも刀を向けた。藤堂は重傷のまま逃走するが程なく死亡した。山南敬助は前年に切腹し、原田左之助と斎藤一は別の経歴を辿るため誤りである。
Q4 : 新選組で監察兼医師として情報収集や負傷者の治療に当たった人物は誰か。
山崎烝(すすむ)は丹波出身で蘭方医学を学んでおり、新選組では監察として内外の動静を探索するスパイ活動を担った。同時に怪我人の応急処置や薬の手配など医務も担当し、多才ぶりを発揮した。池田屋事件でも先行して情報を掴み、襲撃の成功に寄与したとされる。戊辰戦争では会津まで従軍するが、飯盛山付近で戦死したと言われる。井上源三郎は六番隊組長、大石鍬次郎と佐々木愛次郎はいずれも隊士だが医務・監察の中心ではないため誤りである。
Q5 : 新選組三番隊組長として剣豪の名を馳せ、会津藩に合流後は斗南藩士となって明治を生き抜いた人物は誰か。
斎藤一(本名山口一)は会津戦争で白虎隊とともに戦い、旧幕府勢力が敗れた後も降伏せず、斗南藩で士族として再出発した。のちに警視庁に勤め、西南戦争にも従軍し、明治以降も剣術の達人として知られた。剣風は左片手突きが有名で「無敵の斎藤」と恐れられた。島田魁は伍長格で晩年は京都守護職邸跡に勤め、永倉新八は北海道樺戸監獄の剣術師範を経て東京に戻り回顧録を残した。原田左之助は飯田町で戦死説があるなど別経緯のため不正解。
Q6 : 隊士の一人永倉新八が晩年にまとめ、当時の新選組の実像を伝える貴重な史料となった著作はどれか。
永倉新八は明治後、北海道や東京で剣術を教えながら新聞や雑誌の取材に応じ、新選組に関する記憶を語った。彼が大正2年に小樽新聞へ寄稿し、その後単行本化されたのが『新撰組顛末記』である。局長近藤勇への評価や池田屋事件の裏側など、当事者ならではの証言が多く含まれており、後世の研究の一次資料として価値が高い。『浪士文久報国記事』は山岡鉄舟が記した別書、『新撰組日誌』『維新風雲録』は実在しないか別内容の書物のため誤りである。
Q7 : 新選組の初代局長を務めた人物は誰か。
新選組は文久3年(1863年)に浪士組の分派として正式に発足したが、その時に局長に就いたのが天然理心流四代目宗家である近藤勇である。近藤は武蔵国多摩の農家出身でありながら剣の腕前と人格で隊士をまとめ、のちに幕臣にも取り立てられた。芹沢鴨は結成当初の筆頭局長であったが粛清され、土方歳三は副長、山南敬助は総長であった。よって初代局長の答えは近藤勇となる。
Q8 : 新選組の隊旗に大書された「誠」の字を書いたと伝わる人物は誰か。
新選組の隊旗には白地に大きな赤い「誠」の一字が染め抜かれていた。揮毫者については諸説あるが、最も有力なのが幕末の名剣士で書家としても名高い山岡鉄舟である。鉄舟は幕臣山岡家を継ぎ、無刀流の開祖としても知られ、公武合体派の立場から京都で活動していたため近藤勇らと接点があった。彼の豪放な書風が旗の文字にも表れているとされ、伊東甲子太郎や勝海舟などが書いたという一次史料は現存しない。したがって書いた人物は山岡鉄舟とする説が通説である。
Q9 : 1864年6月に発生した池田屋事件で、新選組が襲撃した池田屋があった都市はどこか。
池田屋事件は元治元年6月5日夜、尊皇攘夷派の志士が京都市中の旅宿・池田屋に集まり御所焼き討ちなどの謀議をしているとの情報を得た新選組が急襲した事件である。場所は京都三条小橋付近にあった旅館で、近藤勇・沖田総司・永倉新八らが突入し、多くの志士を捕縛ないし斬殺した。事件後、新選組の名声は一気に高まり、幕府および会津藩からの信頼も増した。江戸や大阪、横浜ではなく、政治の中心であった京都で起こった点が重要であるため、正解は京都である。
Q10 : 副長土方歳三が戦死した最終局面となった戦いはどれか。
土方歳三は鳥羽伏見、甲州、会津と転戦した後、旧幕府軍の最後の拠点となった蝦夷地(北海道)に渡り、箱館政権の陸軍奉行並として奮闘した。慶応4年(明治元年)旧暦5月11日、箱館戦争の最終局面である一本木関門付近の戦闘で銃弾を受け落馬し戦死したと伝えられる。彼の死によって旧幕府軍の士気は大きく低下し、数週間後に五稜郭は降伏する。会津若松城攻防戦や鳥羽伏見の戦いで彼は生き残っており、甲州勝沼でも同様であるため、正解は箱館・五稜郭の戦いである。
まとめ
いかがでしたか? 今回は新選組クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は新選組クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。