自由民権運動は、明治時代の重要な政治運動の一つでした。草の根レベルから国民の政治参加を広げ、近代議会制民主主義の基盤を築いた運動です。そのキーマンや出来事について、10問のクイズにお答えください。この運動の歴史的位置づけや特徴を知ることで、日本の近代化への足跡をたどることができるでしょう。
Q1 : 1889年制定の大日本帝国憲法により定められた国会の正式名称は?
1889年の大日本帝国憲法制定により、初めて国会が正式に設置され「帝国議会」と名付けられました。帝国議会は貴族院と衆議院の二院制で構成され、国権の最高機関ではありませんでしたが、民権運動の成果として重要な位置を占めました。
Q2 : 明治時代初期に民権派の主張を表現した言論雑誌で、植木枝盛が編集したものはどれか?
自由民権運動の活動の中で出版された「自由新聞」は、植木枝盛が編集長となり自由民権運動の主張を積極的に伝えました。当時政府の圧力によって何度も弾圧を受けましたが、市民の間で高い影響力を持ちました。
Q3 : 自由民権運動の影響で地方で活発化した演説や集会の場で、主に開催されたのは何と呼ばれたか?
自由民権運動は各地で「政談演説会」という形で、住民が集って政治について議論したり意見を述べたりする場が盛んに設けられました。こうした活動があったことで、国民の政治参加意識が高まり近代民主主義の土台が築かれていきました。
Q4 : 1885年に発足し、内閣制度初代の内閣総理大臣となった人物は誰か?
1885年に内閣制度が導入され、初代の内閣総理大臣には伊藤博文が任命されました。伊藤は憲法制定にも携わった明治維新の重要人物で、自由民権運動の高まりの中、近代政治体制の整備を進めたことが評価されています。
Q5 : 自由民権運動の過程で起きた農民一揆で、組織的な武装蜂起として日本史上有名なのは?
1884年に起きた秩父事件は、自由民権運動を背景にして秩父地方の農民が過重な負債に苦しみ武装蜂起したもので、自由党員も関与したといわれます。この事件は運動の激化が社会問題化した象徴的な事件で、後の運動にも影響を与えました。
Q6 : 政府の弾圧で自由党が解党された年は?
政府は民権運動をたびたび弾圧したため、自由党は過激化する農民反乱(秩父事件など)の影響も受け、1884年10月に解党しました。その後1890年前後の政党再編を経て再び新しい形で政党が誕生しています。
Q7 : 自由民権運動の代表的なスローガン「民選議員設立建白書」が提出された年は?
「民選議院設立建白書」は1874年に板垣退助らによって明治政府に提出されました。当時の専制的な政府に対し国民の代表による議会設立を要求した文書であり、これを契機に自由民権運動が全国に拡大しました。
Q8 : 自由民権運動を全国に展開するための組織として1877年に板垣退助らが設立した政党は何か?
自由民権運動を全国に展開するため、板垣退助が中心となって1877年に土佐で自由党を結成しました。自由党は、民権運動をリードした初の近代政党として国会開設運動や言論の自由の推進など、後の憲政政治の土壌をつくる活動を続けました。
Q9 : 1881年に発表された、国会開設の時期を明示した詔勅は何と呼ばれるか?
1881年、自由民権運動が高まりを見せ政府が国会開設への方針を打ち出す必要に迫られました。その際に発布されたのが「国会開設の詔」です。この詔勅により明治23年(1890年)までに国会を開設することが公に約束され、運動の一つの達成となりました。他の選択肢は該当しません。
Q10 : 自由民権運動の中心となった人民の権利拡大を求める指導者の一人で、『民選議院設立建白書』を提出したのは誰か?
自由民権運動の指導者であり、1874年に「民選議院設立建白書」を提出したのは板垣退助です。彼は士族出身で、国会開設や政府批判を行ったことで知られています。自由党の創設者でもあり、民権派運動を牽引しました。「民選議院設立建白書」は国会開設の契機となる重要な文書であり、この運動の出発点とも言えます。
まとめ
いかがでしたか? 今回は自由民権運動クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は自由民権運動クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。