織田信長が上洛を果たし、足利義昭を将軍に据えることで室町幕府の再興を目指した歴史的エピソードを題材にしたクイズをお送りします。信長の上洛に至る過程では、稲葉山城の攻略、桶狭間の戦い、美濃との和睦など、重要な出来事がありました。上洛後は明智光秀をはじめとする家臣の活躍で京都の再建が進み、経済的にも大きな変化がありました。この10問のクイズを通して、信長の上洛への道のりや、その歴史的意義を理解していただければと思います。
Q1 : 信長の上洛により実現した足利義昭の将軍就任は、室町幕府第何代将軍だったか?
信長が擁立した足利義昭は室町幕府第15代将軍です。兄の義輝の死後、義昭は諸国を流浪していましたが、信長の力を借りて1568年に将軍となります。しかし信長との対立が激化し、やがて義昭の室町幕府は滅亡しました。義昭が最後の将軍です。
Q2 : 織田信長が上洛前、支持を得るために交渉した有力武家は誰か?
信長が上洛する際、摂津・堺方面を支配した三好三人衆(松永久秀、三好長逸、三好政康)と交渉し、当初は協力関係を築こうとしました。三好三人衆は室町幕府に反抗していた勢力で、彼らを制圧することで京都への道が開かれました。他の選択肢の大大名はこの時期は直接的な関与はありません。
Q3 : 信長の上洛戦で浅井長政が同盟者であった理由は何か?
浅井長政が信長に協力した大きな理由は、信長の妹・お市の方と婚姻関係にあったためです。両家の姻戚関係が信長と浅井の同盟を強固にしていました。しかし後に長政は朝倉氏との古い盟約を優先し、信長と敵対することになります。
Q4 : 信長の上洛軍が京に入った際、焼け野原になっていた京を再建したきっかけは?
信長は上洛後、楽市楽座を実施して経済活性化を目指し、荒廃していた京の再建に大きく寄与しました。これにより商工業が隆盛し町の再生が進みました。禁裏(天皇の住まい)の修理や寺社再興も行われますが、政策的インパクトが大きかったのは楽市楽座です。
Q5 : 上洛した信長を京で受け入れ、将軍就任に尽力した公家は誰か?
織田信長の上洛による秩序回復を歓迎し、足利義昭の将軍就任に尽力した公卿が近衛前久です。彼は信長と親しい関係を築き、公家社会から義昭将軍推戴を導きました。二条晴良や三条西実澄も公家ですが、この逸話の主役は近衛前久です。
Q6 : 信長上洛の際、京への進軍途中で対立した六角氏の本拠はどこだったか?
織田信長が上洛の際、大きな障害となった近江の六角氏の本拠地は観音寺城です。信長はこれを攻めて破り、近江を制圧してから進軍を続けました。小谷城は浅井氏、稲葉山城は美濃斎藤氏、福知山城は後の明智光秀の城です。
Q7 : 織田信長が上洛した年は何年か?
信長が足利義昭を奉じて上洛したのは1568年(永禄11年)です。義昭を室町幕府第15代将軍に据えることで天下への足掛かりを築きました。その後も各地で戦いを繰り広げつつ勢力を拡大していきます。桶狭間の戦いは1560年、姉川の戦いは1570年、長篠の戦いは1575年に起きています。
Q8 : 信長の上洛軍の主力として活躍した家臣は誰か?
信長の上洛戦で最も活躍した家臣の一人が明智光秀です。光秀は当時から頭脳明晰で、信長の命を受けて細川藤孝や筒井順慶らと連携し、摂津や山城の平定に大きく貢献しています。柴田勝家や丹羽長秀も重臣でしたが、上洛戦での功績としては明智光秀が特に重要です。
Q9 : 織田信長が上洛を果たした際に擁立した室町幕府の将軍は誰か?
織田信長が上洛した1568年、将軍として擁立したのは足利義昭です。義昭は兄義輝が暗殺された後、各地を放浪していましたが、信長の支援をうけて入京、15代将軍となります。その後、信長と義昭は対立し、最終的には義昭が追放されて室町幕府が滅亡することになります。
Q10 : 織田信長が上洛を果たしたきっかけとなった出来事は何か?
織田信長が上洛への直接の足掛かりとしたのは、1567年の稲葉山城(岐阜城)の攻略です。美濃を平定し、岐阜と改名することで東海道への拠点を確保しました。上洛(室町幕府再興)へのシナリオを自らのものとする土台が築かれました。桶狭間の戦いも重要ですが、上洛の契機は稲葉山城攻略です。
まとめ
いかがでしたか? 今回は織田信長の上洛クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は織田信長の上洛クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。