承久の乱は1221年(承久3年)に発生した大きな戦乱です。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒しようと起こしましたが、結局は幕府方が勝利しました。この一連の事件を振り返るべく、承久の乱に関するクイズを10問ご用意しました。この乱の背景、中心人物、結果などについて理解を深めていただければと思います。
Q1 : 承久の乱の直後、幕府が強化した権限はどれか?
承久の乱後、幕府は六波羅探題の設置によって京都・西国支配を強化しました。朝廷の人事には直接関与しませんが、干渉力が大幅に増しました。検非違使は朝廷の警察権であり、幕府強化の直接的項目ではありません。
Q2 : 承久の乱で朝廷方に与した武士の多くに下された処分は?
承久の乱で朝廷方についた武士は敗北後、厳しく処罰されました。多くは所領を没収され、これが東国の武士に分け与えられることで、幕府の統治基盤がより強化されました。
Q3 : 承久の乱のきっかけとなった出来事は?
承久の乱が起きるきっかけとなったのは源実朝の暗殺です。将軍家断絶で幕府内部に混乱が生じ、後鳥羽上皇が幕府打倒を図りました。他の選択肢は直接的なきっかけではありません。
Q4 : 承久の乱により流罪となった上皇は何人か?
承久の乱の直後、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の3人がそれぞれ異なる場所に流されました。天皇や上皇がここまで処罰されたのは異例で、この出来事は朝廷の権威失墜に繋がりました。
Q5 : 承久の乱の結果、成立した新しい制度は何か?
承久の乱後、京都の治安維持と朝廷監視のため幕府は六波羅探題を設置しました。守護・地頭の設置は鎌倉幕府初期、武家諸法度や目安箱は後の時代です。六波羅探題は幕府の力を西国にも広げる要因となりました。
Q6 : 承久の乱で幕府方が勝利した理由の一つは?
承久の乱では西国武士や京都の御家人の多くが幕府方になり、素早く行動したことが勝因の一つです。朝廷軍は準備が遅れ、組織力でも劣りました。蒙古の援軍は関係ありません。
Q7 : 承久の乱後、後鳥羽上皇はどうなったか?
承久の乱で敗北した後鳥羽上皇は、隠岐(おき)に島流しにされました。この配流は朝廷に対して大きな威厳の失墜をもたらしました。即位も暗殺もされず、出家もその時はしていません。
Q8 : 承久の乱で幕府軍の総大将を務めたのは誰?
承久の乱で関東(鎌倉幕府側)軍を率いたのは北条泰時です。北条泰時は北条義時の子であり、実戦で軍を指揮しました。北条義時は執権として鎌倉を統治していましたが、現場で指揮したのは泰時です。足利尊氏はこの時代の人物ではありません。
Q9 : 承久の乱を起こした中心人物は誰か?
承久の乱の中心となったのは後鳥羽上皇です。彼は幕府に不満を持ち、武力で倒そうと挙兵しました。他の人物は当時の権力者や関連人物ですが、乱の主導者は後鳥羽上皇です。
Q10 : 承久の乱が起こった西暦はどれか?
承久の乱は1221年(承久3年)に発生した大きな戦乱です。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を打倒しようと起こしました。それ以前の1185年は壇ノ浦の戦い、1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年、1219年には源実朝が暗殺されました。したがって、正解は1221年です。
まとめ
いかがでしたか? 今回は承久の乱クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は承久の乱クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。