道鏡事件は奈良時代後期の重要な出来事の一つです。称徳天皇が道鏡を重用したことで、彼の即位が噂されるまでになりました。しかし、宇佐八幡宮の神託によりその野望は阻止されました。称徳天皇の死後、道鏡は筑紫観世音寺に左遷され、事件は幕を閉じました。この出来事は、その後の僧侶の政治的影響力を制限する契機にもなりました。以下の10問のクイズで、この道鏡事件の詳細について確認してみましょう。
Q1 : 道鏡事件の影響として正しいものはどれか?
道鏡事件の結果、僧侶が政界で台頭することを警戒する風潮が強まりました。これがその後の僧侶の政治進出抑制につながります。平安京遷都や仏教禁止、女性天皇禁止とは無関係です。この事件は仏教と政治の距離感を定める契機となりました。
Q2 : 事件後、和気清麻呂が受けた処罰の内容は?
和気清麻呂は宇佐八幡宮の神託を理由に道鏡の皇位継承を拒絶したため、流罪(遠国への配流)に処されました。しかし称徳天皇没後には名誉回復しました。死刑や免職のみ、あるいは賞罰なしではありませんでした。
Q3 : 和気清麻呂が得た神託の内容は何だったか?
宇佐八幡宮の神託として和気清麻呂が語った内容は「我が国の王たる者は必ず天つ日嗣の皇孫なり」というものでした。これは皇族以外、特に僧侶である道鏡の即位を認めない内容です。道鏡を天皇にせよ、僧侶が天皇となるべし、外国王の迎え入れなどは神託に含まれていません。
Q4 : 道鏡事件の結果、道鏡はどこへ左遷されたか?
道鏡は称徳天皇の死後、筑紫観世音寺(現・福岡県太宰府市)に左遷されました。ここで失意のうちに余生を送ったと言われています。他の出雲大社や比叡山延暦寺、高野山は道鏡と左遷先とは関係ありません。観世音寺は当時九州の重要な寺院でした。
Q5 : 道鏡事件のさなかに死去した称徳天皇の崩御は何年か?
称徳天皇は770年に崩御します。道鏡事件は称徳天皇の崩御とともに終息し、道鏡も失脚しました。773年や764年、768年ではありません。称徳天皇の死は道鏡の失脚や藤原氏の勢力回復に大きく関係しています。
Q6 : 宇佐八幡宮の神託があったのは何年か?
宇佐八幡宮の神託事件は769年に起こりました。道鏡の即位を後押しするため称徳天皇が神意を問い、和気清麻呂が使者として派遣されます。和気清麻呂は道鏡即位不可の神託を持ち帰り、道鏡の野望は頓挫しました。759年や764年、774年は誤りです。
Q7 : 道鏡を天皇にするよう求めて、宇佐八幡宮の神託を持ち帰った使者は誰か?
道鏡を天皇に推す動きが強まる中、使者として宇佐八幡宮に赴いたのは和気清麻呂(わけのきよまろ)です。彼は「わが国の王たる者は必ず天つ日嗣(あまつひつぎ)の皇孫なり」との神託を得て帰京し、道鏡即位を阻止しました。藤原仲麻呂や吉備真備、恵美押勝は別の時代や事件で活躍した人物です。
Q8 : 道鏡の出身はどこか?
道鏡は現在の大阪府に当たる河内国の出身です。医術にも通じた家柄と伝えられ、僧侶として活躍した後、称徳天皇に重用されました。他の選択肢である大和国(奈良県)や近江国(滋賀県)、伊勢国(三重県)は道鏡の出生地とは関係ありません。
Q9 : 道鏡は何という職位まで昇進したか?
道鏡は僧侶でありながら最高位の法王(ほうおう)まで昇進しました。当時の法王は、僧侶に与えられる最高位で政治的な影響力も持っていました。道鏡は非常な抜擢を受けて政治のトップに立つほどでしたが、天皇にはなっていませんし、太政大臣や大納言にもなっていません。
Q10 : 道鏡事件に関与した女帝の名は?
道鏡事件の舞台となったのは奈良時代後期で、称徳天皇(しょうとくてんのう)が治世の時です。称徳天皇は道鏡を寵愛し、最終的には皇位継承を考えるまでに道鏡を重用しました。他の選択肢である元明天皇、聖武天皇、元正天皇は道鏡事件には直接関係ありません。
まとめ
いかがでしたか? 今回は道鏡事件クイズをお送りしました。
皆さんは何問正解できましたか?
今回は道鏡事件クイズを出題しました。
ぜひ、ほかのクイズにも挑戦してみてください!
次回のクイズもお楽しみに。